■仏教 その5

さて、前回は仏法の核心(?)を述べさせていただきました。

宗教とは、人として生まれてきて、人として生かされているこの身を喜べることに気づかせてくれる願いです。 宗教は、私が何かに願っていくものではなくて、願われている私への気付き(自覚)だと思います。

でも、これだけだと自己満足で終わるのでは?と思われる方も多いでしょう。そこで、「実践」という言葉をキーワードとしてわたくしの思いを書きます。

私への願いに気づくことで、今、今、いま、を生きる喜びは大きいです。ところが反面、たいへんな恥ずかしさも感じるのです。

それは、前回も書きましたが、わたくしは私への願いを素直に喜べませんし、何かと腹を立てたりする毎日です。振り返ると、自己中心になるわたくしは恥ずかしさやそれを通り越して、痛み悲しみさえ覚えてしまうのです。

ただ、この悲しみや痛みがわたくしの行動(ボランティア等)の原動力というか自然な動き・展開になっているようにも思います。だから、願われているという自覚は、わたくしの中だけに留まらず、必然的な展開(いわゆる実践)までも生み出すようです。

ちょっと余談ですが、ボランティア活動等を通して感じたことをお話しします。まず、人に何かをしてあげることの難しさです。上で自然な展開と書きましたが、他のため人のために自然に活動することはなかなかできませんでした。

自分はよかれと思っても、受ける側はそうは思わない場合もあります。時や場によって、わたくしの気持ちも変化するし、相手の気持ちも変わります。誰もが「人を愛する」という言葉をよく使いますが、これほど難しいことはないと実感いたします。

常に変化する わたくしの中に「愛」なんてものは、ないのではないだろうかとも思います。もっといえば、わたくしのなかには真実は存在していないのでしょう。

だからこそ、そんなわたくしに仏は願いをかけてくださるわけです。またそのことが、わたくしの一層のよろこびになると思うのです。

そんなわけですから、行動、活動(必然の展開?)は、まだまだやめられませんです。

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