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■教育その2


「17歳」、こんなにもエネルギッシュで、希望や喜びにあふれた言葉が、昨今は、悲しく暗いイメージの言葉になりつつあることがさびしく思えてなりません。あまりにもいのちを粗末にした若者の犯罪は、今の日本全体の状況を代弁しているかのようです。

文部省は、学校にいのちの大切さを教えるよう勧告しました。しかし、学力選抜(入試など)で、子ども達の競争を強いているかぎり、子ども達はいのちを大切にはできないでしょう。なぜなら選抜競争ほど、ある意味いのちを蹴落とし排除していくものはないからです。いのちを大切にと言いながら、誰々に負けるなでは、子ども達の落ち着くところはありません。

いのちの大切さを教育するには、自分のいのちをじっくり見つめる落ち着いた空間・場所が必要です。→「教育その1」で、そこは家庭のお仏壇であり法事・法座であると書きました。親が手をあわす場所を持たずして、子どもに教育はできません。

さて、仏さまの前でわが身を振り返ったときに見えてくる人間の本質は、次の二つではないでしょうか。①自分の弱さに妥協しがちな(本音だけでは、生きられないと居直る)私。②自己過信する(自分はだいじょうぶとうぬぼれる)私。

我欲(自己中心)にしか生きられないがゆえに、①・②に流されていく人間の弱さへの深い痛みに気づき、それが自らの課題となって背負われていく生き方を知らされます。人間は、痛み(自分の弱さ)を背負うことで、それとたたかう力(人生を踏み出す力)を持つことができるのではないかと、私は思っています。

浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来という仏さまは、そんな私をいつでもどこでも拝んでくれているのです。いつも拝まれている私、ひとりではないあなたなのです。その大きなぬくもりのなかで、私たちは、自分のいのち・生きかたを厳しく見つめさせていただきたいものです。

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