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■教育その1


先ごろ文部省が教育審議会に幼児期の心の教育のあり方ということで、諮問をしました。これからは、心の教育の時代だと言っているわけです。

ここ数年前を振り返りますと、人権、子どもの権利とマスコミはじめ世論は声をあげていました。しかし、神戸の児童殺害事件をはじめナイフ殺傷事件などがおこると、世論は少年法を見直そう、子どもにも厳しい罰がいるのではないか、という議論に変化しました。

人間の意識は、社会の流れになんとふらつく事でしょうか。管理だ!自由だ!との叫びも到底あてにできるものではないということがよくわかります。(おとな社会、政治は言うに及びません)

そんな中で、なにを基本(柱)として心を育てて行けるのでしょうか?また、心を育てるとは、どういったことなのでしょうか?

私は、心を育てるとはいのちといのちのつながりを感じられる人間になることだと思います。しかし、コンビニやスーパーマーケットが主流の昨今では、魚の絵を描くにもパック入りの切り身の絵を描く小学生がいたり、食前のことば(いただきます)・食後のことば(ごちそうさま)を笛で代用している学校があったりと、普段の生活の中にいのちそのものやいのちのつながりは見えにくくなっています。(・・・というよりいのちを分断している)

『畏心:いしん』という法語があります。これは、おそれる心という意味ではなく、目に見えないものへの感謝ということです。上のような状態では、目に見えないもの(いのちのつながり)や生(いきていること)への感謝する気持ちは生まれてはこないでしょう。

それでは、どうやってその心を育てて行けば良いのでしょうか?もちろん基本は家庭のコミュニケーションです。しかし、これまでに書いたように家庭もバラバラな状態が今なのです。個人にも家庭にも社会にも柱(よりどころ)はありません。

さて、そこでいま一度、家庭の宗教を見直してみてほしいのです。朝夕みんなそろってお仏壇に手をあわせてみませんか。私達の人生のよりどころ(中心)になるものは、今ここにしかないと思います(もちろん、本物の宗教を見極めなくてはいけませんよ)。

先日、ご門徒さん宅にご法事でうかがいますと、平日なのに小学2年生がおとなと一緒にお参りしていました。聞きますと、学校を休ませたそうです。本当にありがたいことです。以前は当たり前であったこのことが、今は勉強が先だと親は子どもを学校に行かせます。ご法事以上のいのちの勉強がどこにありましょうか。

ほんとうの心の教育を、まず家庭からはじめてみませんか。

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