安楽死・尊厳死〜終末期医療を考える。

富山県の病院の外科部長が、がんの末期患者の人工呼吸器をはずして、
延命治療を中止して
7人が死亡した。病院は「患者のための尊厳死で
家族の同意を得ている」と答えたが、警察は「殺人容疑で医師の刑事責任
を問う」ようだ。また、国は尊厳死の法制化を検討している。

これは先日の出来事です。仏教の教えをもとにいのちのあり方をひとりひとりが
振り返らなければならない、実に重い課題を与えられました。

安楽死・尊厳死の定義はもちろんないのですが、法律の判断によれば、
いちおう安楽死
(医師による積極的な致死行為:本人の意思表示がいる)
・尊厳死(自然に死をむかえるために治療行為を中止する消極的な安楽死:
本人の意思表示または家族の推定がいる
)ととらえられているようです。

議員の一部や日本尊厳死協会は、尊厳死法制化に賛成していますが、
一部の学者・作家や難病の患者は、反対の意向です。

さて、仏教はこの課題にどう応えていけるのでしょうか。

お釈迦さまの教えの原点は「縁起」、すなわちあらゆるいのちがいかし
いかされて生きているということです。浄土真宗の立場で言えば、
わたしのいのちであってもわたしのいのちではなく、すべてが阿弥陀如来の
願いの中で生かされているいのちであるということです。

「自然(じねん)といふは、自()はおのづからといふ。行者(ぎょうじゃ)
はからひにあらず。然
(ねん)といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来
(にょらい)のちかひにて
あるがゆゑに法爾
(ほうに)といふ。」『親鸞聖人御消息』

「自然法爾」、すなわちいのちを、私のはからひ(自我:エゴイズム)
とらわれず、如来の願いにまかせ自然であろうということです。

このことから考えると、安楽死・尊厳死の課題が明らかになってきます。

○尊厳死を選ぶ人間の権利を主張することに関して → 死に尊厳との定義は
いらない。死そのものが尊厳なるもの。尊厳という名のもとでの殺人ではないだろうか。
死さえ定義しようとする人間の傲慢。自己決定権を通すエゴ。先に述べたように、
いのちそのものが縁起の中で生かされているのである。

○安楽死に関して → 生命さえ操作しようとする近代医療の発展が、以前には
なかった課題をつきつけている。しかし、どんなに科学が発展しても老・病・死する
我が身であることは絶対である。したがって、救い
(安楽)とは、積極的に死ぬこと
でもなく、また病気を治し死ななくすることでもない。本当の安楽とは、苦をいかに
受けとめていくべきかの問題だと思う。つまり、安楽死を考える必要のない医療の
整備
(たとえば、苦痛を和らげる環境や介護のあり方)こそ必要ではないだろうか。

○法制化を目指すことに関して → いのちの問題は人間の価値観(必要ある・ない、
生きるに値する・しない
)ではとても量れない不可思議のこと。だれも判断できない。
人間のものさしでいのちを見ていくことのおごりを私たちは知るべきである。また、
法制化することで、老人や患者など弱い立場にある人に死を選ばせる暗黙の圧力にも
なると思う。


また、それだけでなく、法律でココまでって決めるなら、患者や家族の闘病の力も
無力化させ、そこから得るいのちの葛藤や輝きさえも放棄していく風潮をつくるかも
しれない。それはますます死を遠ざけようとしたり、マイナスと見ていく私たちの偏見を
加速させていくことにもつながり悪循環であると思う。

このように科学の発展は、以前にはなかった多くの問題を提示しています。
その問題が自分に跳ね返ってきたとき、人間は生死の自由も認めよと主張するのです。
ほんとうに私たち人間は煩悩のかたまり、やっかいな生きものです。

そのような人間の姿を照らしあきらかにする仏教の視点は、今こそとても大切だと感じています。
ご意見などをお待ちしています。

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