住職に尋ねにくいこと & わかりづらい仏教語(その2)

前回に引き続いて、ご門徒さんからよく尋ねられることについてあげてみました。

問い 仏法と私の日常生活との関係は?
答え 如来さまのお心(願い)は、智恵と慈悲のたゆまないお働きです。
   慈悲のいのちの暖かさで私をつつみ、いつでもどこでもよりどころに
   なっていてくださる如来さまのお心は、それを聞かせていただいた私に
   満ち足りた安心の上での喜びあふれる生活を約束してくれます。
   そのことが、「日常のすべてのこと(寝たり・起きたり・食べたりなど)は、
   如来さまのご用であった」といわれてきたゆえんです。

   また同時に、智恵の光は、私の自分中心で傲慢(ごうまん:思い上がり)な姿
   を照らし出します。たえずわが身をかえりみることが、自分も人も共に手を
   取り合ってまことの生き方を実践しようという動き(エネルギー)になるのです。
   まことの生き方とは、御同朋の社会をめざすことつまり差別解放です。

問い 他宗の葬儀のときに門徒式章はしていても良いのですか?
答え 門徒式章は、浄土真宗門徒の自覚のあらわれです。他宗の葬儀でも門徒
   としての自覚は変わりませんので、していてもかまいません。
   私も葬儀のときは、それぞれ各人の宗旨に準じて、作法等を行うように
   お伝えしています。

知っていますか?

供養・・・この語自体は、仏教ではたいへん大切な語です。
     我欲(自分中心のこころ、エゴ)のままに生きている私が、
     仏のおこころ、仏の願いに生きていく姿勢に転じ育てられて
     いくことです。しかし、最近の「供養」という語の使われ方は、
     慰霊や鎮魂という呪術的な意味に使われていて仏教本来の意味から
     離れていっていることは、悲しいことです。

基幹運動・・・『教書』に、「念仏は、私たちがともに人間の苦悩を担い、
        困難な時代の諸問題に立ち向かおうとする時、いよいよ
        その真実をあらわします」とあります。

        現代社会をかえりみると、自己中心的な考えが強まり、
        部落差別をはじめとして、戦争・ヤスクニ・環境など
        いのちの大切さを見失うような多くの問題、社会構造があります。
        そして、同朋教団と呼ばれる浄土真宗教団もその構造に飲み込ま
        れている状況です。

        このような社会と教団のあり方に目をそむけることなく、
        教団のさまざまな活動をひとつひとつ点検して、自らと教団の
        差別の現実を改め、積極的に社会の問題に取り組み、御同朋の
        社会の実現に努める運動が基幹運動です。

        そしてそれは、僧侶・門徒が教法(お念仏)に依って立つ、
        如来・宗祖報恩の歩みに他なりません。

組報「みかさ」から

使わない言葉 浄土真宗での言葉
ご霊前 ご仏前・ご尊前
告別式 葬儀
故人
永眠する 往生する
草葉の陰から お浄土で
天国に行く お浄土に生まれる
安らかにお眠りください 私たちをお導きください
ご冥福をお祈りします 哀悼の意を表します
☆浄土真宗で「ご冥福を祈る」の言葉を使わない理由

冥福は、冥土で幸福になるの意味です。浄土真宗は、いのち終わると
必ず「浄土」で仏に成る教えです。つまり、生きている私たちが
悟りをひらかれた仏に対して、「幸福を祈る」必要はないのです。

「冥福を祈る(冥土で幸せになってください)」のは、自分自身の
あり方(自己中心的にしか生きられないこの身)さえなかなか
振り返ろうとしない私たちが、すでに悟られた仏へ対して
勝手なことを言っているごうまんさに他ならないわけです。

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