譬(たと)えば、日光(にっこう)の雲霧(うんむ)に
覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明(あき)
らかにして闇(やみ)無(な)きが如(ごと)し

私たち凡夫は、阿弥陀如来の智慧の光に照らし護られている
ものの、三毒の煩悩の雲や霧はいつも私の心を覆っています。

そのような私がどうして仏になれるのでしょうか。

親鸞聖人はえてお答えになります。
しばしばわれて光がさえぎられても、
くてはない。つまり、阿弥陀如来の智慧の光(ご信心)は
止むことなくすべてのものを護り照らし続け、私たちに仏へ
の道を歩ませてくださっているのです。

私の方から仏になっていく因は、ひとつもありません。
自らの力で仏になる因をつくろうと修行して、もしも仏になる
ことができたとしてもそれは特別で、その人しか救われず、
すべてのものを平等に救う道からは遠い教えでしょう。

だから、自分は自分の力でなんとかできるとおごっている人
には、阿弥陀如来の照らす智慧の光にも気づくことが困難
になります。

煩悩の止むことがない「地獄一定すみか」の人間だから
とても仏になることはできないと恥じる私を、そのまま光に包んで
救う阿弥陀如来のお慈悲の広大さを味わうところに、
慚愧(ざんぎ)の中に歓喜(かんぎ)ある日々の生活を送らせて
いただくことができるのです。

    
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