如来(にょらい)世(よ)に興出(こうしゅつ)したまふ所以
(ゆえ)は、唯(た)だ、弥陀(みだ)の本願海(ほんがん
かい)を説(と)かんとなり。

前回までの句は、親鸞聖人が阿弥陀如来のお徳を讃えられ、そのお徳によ
っていただいた
ご信心の味わいを述べられたものです。

今回の句からは、阿弥陀如来のお徳を、正しくこの世界に説かれたお釈迦さ
まのお心を
通して味わわれた句です。だからこの句の最初の如来とは、阿弥陀さまでは
なくて、お釈迦さまのことです。親鸞聖人は、お釈迦さまをどういう方といただ
いていかれたのでしょうか。

今回の句は、「お釈迦さま(釈迦如来)が、この世に出られた根本のお心(出世
本懐:しゅっせほんがいという)は、ただ阿弥陀如来本願海を説くためであ
る。」と解釈します。

その解釈の根拠になっているのが、『仏説無量寿経』上巻の「如来、無蓋(む
がい)の大悲を以て、三界(さんがい)を矜哀(こうあい)したまふ。世に出興する
所以(ゆえん)は、道教(どうきょう)を光闡(こうせん)して、群萠(ぐんもう)を拯(す
く)ひ恵むに真実の利(=南無阿弥陀仏の名号))を以てせんと欲してなり。」で
す。このように、お釈迦さま自らがお名号を讃えられているのです。

「阿弥陀如来なんて、お釈迦さまの話の上のことだけで架空のものでしょう。」
と言われる方がおられます。しかし、親鸞聖人はそうはいただかれていないの
です。

言い過ぎかもしれませんが、つまり、なかなか仏法を聞けないわたくしたちの
ために、阿弥陀さまがお釈迦さまとして現れてくださり、わたくしたちに真実の
利を恵んでくださっているのだ、お釈迦さまは阿弥陀さまがお姿を変えて具
体的に人間の世界に形として現れてくださっているのだと、親鸞聖人は味わ
われておられます。

そのことは、お釈迦さまを単に「釈迦」といわれずに「如来」といわれているとこ
ろにあらわれています。親鸞聖人の深いお心を味わうことができます。

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