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■脳死による臓器移植
とても難しい問題だと思います。
浄土真宗は、無量寿(永遠のいのち・・・生と死とを分けて考えません。無限のいのちのつながりととらえるのです)としてのいのちへの目覚めを説いています。私のいのちは私のいのちであるままに、私のものという限定を超えた尊厳を持っているのです。
この基本を踏まえて、脳死による臓器移植を考察してみると、
①脳死を人の死とすることの問題
②臓器移植による死のビジネス化の問題
2つの課題は避けられないでしょう。
①について、臓器移植法が「移植を前提とした場合のみ脳死を人の死とする」という変則的な法であることからもわかるように、日本人は脳死を人の死とはなかなか受け入れきれないのでしょう。いや、それ以前に死が、科学合理主義(役に立つ・役に立たないで分ける)ではとてもハカルことができないものであると、今更ながら思います。
前述したように、いのちが自分のものであるということそのものが、間違いであり、自分の死が自分自身で判断できないように、他者の判断・規準・法律では、いのちをそして死を、決して縛ることはできないと思います。
②について、親鸞聖人は、すべての人間の他者に対する行為は、必然的に「雑毒の行善(その内に他者を傷つける要素を含んでいる)」にならざるを得ないと示されます。つまり、助け合おうとしても人間のエゴは内で刃を磨いでおり、死をビジネスや興味の対象とし、人間を差別していくということです。
事実、世界的にみると、経済力の貧しい国(人)は臓器の提供者となる場合が多いし、また、患者の順番をどう選んでいくのか(基準はあっても今回のようにマチガイもある)など、人の選別がされています。そして、「だれかの死を待つ」というように、人間の精神構造を破壊することはまぬがれないでしょう。ただし、外国で臓器移植をされた日本人の患者さんの報道で、ただ生きられてよかったという言葉だけでなく、生きること自体への意味を見出された言葉を聞かせていただいたことに、私はたいへん救われる思いを持ったことでもありました。
このように何とか考察してみました。それで、結論も出さなくてはいけないのでしょうね。う~ん。臓器移植を待つ人には厳しい結論になります。私は、死は従来の3兆候でおごりなき判定をし、今、生きている(生かされている)状況での精一杯の助け合い・ふれあいが人間の限界と思います。
ご意見ください。 論議継続
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