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■オハイオ州からの手紙その2返事(人権と宗教)


クミコさん&Ericさん

私は、お二人の質問のすばらしさに感激しています。と、いうのも私の宗派である「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」が、今力を入れて取り組んでいる課題がちょうどこの二つの質問、つまり人権についてなのです。

お答えの前に、仏教について少しお話します。仏教は、2500年前インドでお釈迦さまがお説きになった教えです。お釈迦さまの教えは数多くのお経として残されました。その教えは、北を伝わった大乗仏教と南を伝わった上座部仏教にわけられます。大乗仏教はチベット・中国・朝鮮・日本と伝わり、上座部仏教は、スリランカ・タイ・ミャンマーなどに伝わりました。

上座部仏教は、わが身のエゴを戒め、修行することで仏(さとり)に近づく、つまり私一人が救われていく(罪を償い、来世で救われる)という内容のお経を中心とした教えです。タイの少女もそれを素直に実践しているのでしょう。(このことが良いか悪いかの論議は、ちょっと置いておきます…)

日本に伝わった大乗仏教は、私一人のいのちは多くのいのちに支えられているので、すべてのいのちの救い(悟り)が、私自身の救い(悟り)でもあるという内容のお経を中心にした教えです。私の宗教・浄土真宗も大乗仏教です。

浄土真宗は、親鸞聖人が開かれました。親鸞聖人は、自分自身を究極まで振り返られ、どうしても地獄に落ちるしかない罪深い私であるなぁと、わが身を悲しまれ、そんな私を支え、願い続けられる阿弥陀如来を喜ばれたのです。その喜びこそが商人・農民・武士など当時のすべての階級の人に、平等に教えを説いて行かれた親鸞聖人の生きる原動力になっているのです。

私も、親鸞聖人の生きかたに共感しています。

私は僧侶ですが、7年前まで、教員もかねていました。被差別部落の子どもたちも受け持ち、一緒に学習しました。その親や部落の人たちと話す機会も多く、差別の現実を数多く見たり、聞いたりしました。彼らの痛みを少しでも私自身のものとしてゆけるようかかわろうと考え、差別撤廃の集会や人権の講演会などには、今も積極的に参加しています。もちろんこの問題は、私個人だけでなく、宗派(浄土真宗本願寺派)としても考えています。そして、日本だけにとどまらず、世界の人々や地球環境までも広がる課題だと思っています。(えらそうにいっていますが、まだ不充分だらけの取り組みですけれど…。)

さて以上ですが、質問のお答えになりましたかどうか?

最後に、お二人の質問メールを読んで、少し私の説明不足から充分理解していただけなかったかなと思ったところを、もう一度お伝えいたしますね。

●「罪」について
 仏教で教える「罪」とは、道徳や法律でいうところの罪とは違います。「罪」とは、いきもののいのちをとってしか生きられない人間。そして、知らず知らずのうちに自分のエゴで人を傷つけている人間(の本質)の生(生きていること)そのもののことです。

●「わが身を振り返る」ということ
 わが身を振り返るとは、自分の行為を振り返ることではなくて、老・病・死をかかえて生きる人間とは、いったい何なのか?生きるとはどういうことなのか?という、もう一歩深い意味のことです。上の「罪」ということにも関係しますが、親鸞聖人は、「わたしの行き着くところは地獄しかない」といわれました。だから、「わが身を振り返る」ことですぐに「毎日の生活をおだやかな気持ちで過ごす」ことにはならないのです。生活の中で、おかげさまという喜びはあるでしょうが、それは地獄行きに裏打ちされたところのおかげさまの喜びであって、生活の善し悪しは問題ではないのです。(わかりますか?おだやかな気持ちでいることが幸せであるという価値とは違っているのです。)だから、わが身を振り返ると、おだやかでいるというよりも逆に、まわりの痛み・悲しみにじっとしておれない気持ちになるかもしれませんね。

私もあなた方のおかげで、勉強になります。ありがとう!(^^)わかりにくかったところは、また質問してくださいね。それでは、さようなら。 Shinryu

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