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■愛


「キリスト教の輪郭:百瀬文晃」という本を読みました。キリスト教のことが、大変わかりやすく書かれています。その中のキリスト者の生活という章に

>神の愛をいただき、この愛に生かされるとき、この愛は私たちから自然にあふれ出ていきます。神の愛に支えられて、弱い私たちにも、互いにゆるしあい、愛しあうことができるようになります。

という文章があります。神への愛は、隣人への愛をぬきにしてはありえないということでしょう。

仏教では、愛は煩悩(ぼんのう:自己中心的我欲・我執:エゴイズム)のひとつと説きます。さらに、数多くある煩悩の中心となる三毒の煩悩(貪欲:むさぼり・瞋恚:いかり・愚痴:おろかさ)なのです。愛とはつまり、貪欲(とんよく)です。

自分の価値に合うものは取り込み、合わないものは排除していくエゴです。だから、愛はすぐに瞋恚(しんに)、いかりへと変化します。自分が好きなうちはいいけれど、嫌いになると相手の何もかもがイヤになることってありませんか。

今から2000年以上も前にインドの舎衛城にハシノクという王さまがいました。ハシノク王は、王妃である妻マリ夫人に「そなたは、だれを一番愛していますか。」と尋ねました。マリ夫人は、「王さま、あなたのことはだれよりも大切です。しかし、やはり私は、私自身のことを一番愛しく思っているようです。」と答えられました。「やはりそうか。実は私もそう考えていたのじゃ。このことが正しいことなのか、祇園精舎におられるお釈迦さまに聞きに行きましょう。」

お釈迦さまはこう答えられます。「王さま、人間は他の人を愛すといっても、やはり自分自身が一番かわいいのです。そして、それが人間の姿であることを自覚することは、妻に本当の思いやりを持って接することにもなるのでしょう。」

もどりますが、キリスト教の教える隣人への愛・神への愛は、完成しすぎて、この私には難しいことに思えます。

浄土真宗は、エゴ(自分中心のこころ)にしか生きられない私であるということを知らされていくことで、人間のもつ悲しさ・痛みの自覚が、思いやりの動き・はたらきになっていくと教えます。

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